講念仏踊りの取材をしました。

講念仏踊り(動画)

今回は、子どもたちが、取材・動画編集などすべてを行いましたので、ぜひご覧ください!

「講念仏踊りって、どうして始まったの?」
その前にお伝えしたいのは、大和川のつけかえです。
昔の大和川は、今のJR線路横辺りを流れており、よく洪水(こうずい)をおこしていました。そこで中甚兵衛(なかじんべえ)さんたちの努力で東へ移し、石川あたり(柏原市役所)まで延長(えんちょう)し、約14キロメートル、川幅(かわはば)約180メートルの今の大和川にしました。(1704年のことです。)

洪水(こうずい)はなくなりましたが、次は田畑への水引(みずひき)がむずかしくなりました。そこで、大和川から用水路(ようすいろ)をつくり平野川に水を流すようにしました。この灌漑用水路(かんがいようすいろ)ができたことで田畑がうるおい新田(しんでん)ができ農地が発展しました。
 この2つの川をつくったのが(1705年)西村市郎右衛門(にしむらいちろうえもん)さんです。彼は無断の行動により幕府に処刑(しょけい)されたようです。しかし農家の方々は水を引いてくれたことで田畑が潤い(うるおい)大喜びしました。

村人(むらびと)たちは、自分を犠牲(ぎせい)にして水を引いてくれた市郎右衛門(いちろうえもん)さんに感謝し弔い(とむらい)踊りをお坊さんに教えていただき、毎年盆踊りをして供養(くよう)していました。戦争などで踊りを中断していましたが、昭和60年ごろ小学校の先生をしておられた堀内末一(すえかず)先生が復活させて、その後、曙川東小学校で、20年ほど前から兼田小百合(さゆり)先生が引き継いで指導されています。

『講念仏踊り』は自分を犠牲(ぎせい)にして人々に喜びを与えた市郎右衛門さんに感謝する心と、これから人々が楽しんで暮らしていくためのものです。

私たちに何ができるかを考えながら、踊りを引き継いで伝えておられるそうです。

『それでは、僕たちが作成したスライドをみていただきます!』

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